-ささやかな胡桃パン-

『海外文学』と日々のたわいもないノート

ちょっと変でやっぱ散文

気分屋というのもあって、なかなか自分の文体というのが定まらない。自分のブログを読み返してみるとよくわかる。

最近は「〜である」とか「〜だ」をなるべく使わないようにしていて、結構気に入っている。でもこれもまたそのうち飽きるんだろう。ずぅっと同じ文体で書き続けられる人ってすごいなと思う。

僕は特に読んでいる小説に影響を受けがちで、自分の過去のブログの文体を見ればその頃どんな小説を読んでいたのか想像できる。今はタブッキ(須賀さん訳の)なのかな。どちらかと言えば静かな感じ。

ペソアの『不穏の書、断章』を読んでいて思ったんだけど、人って記憶が詰め込まれすぎて、ほぼ「本当の自分」が消えてしまっているんじゃないか。もしそんなものがあるとして。

だから、もしかしたらそれを取り戻すために、小説というものを読むんじゃないのか。結局、自己探究の旅ってこと?

私は進歩しない。旅をするのだ。-フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』より

ペソアみたいに文章を綴りたい。自由に。タブッキの『島とクジラと女をめぐる断片』もそうだけど、断片や断章を重ねてフワッと何かを浮かび上がらせるような語りが理想なのかもしれない。あくまで僕の。

www.sasayakana-kurumipan.com

ペソアおじさんは詩人ではあるけど、詩より散文が優れていると考えている。絵画、映画、音楽、建築と様々な芸術があるけど、やはり言葉、特に散文は最強なのかもしれない。何だかんだみんな興味あるし好きなんだけどね。

ちょっと長いけど↓

散文は芸術全体を包含する──ひとつには 、言葉が世界全体を含んでいるためだが 、また自由な言葉が 、世界について語り思考するあらゆる可能性を含んでいるためでもある 。散文を用いれば 、移し換えによってすべてを与えることができる 。色や形 。画家たちにできるのは 、内面の次元なしに 、それらを直接それ自体で与えることだけだ 。──リズム 。音楽にできるのは 、形という身体も観念という第二の身体もなしに 、それをそれ自体として与えることだけだ 。──構造 。建築家はそれを外部性に強制された堅固な物によって形象するのだが 、散文ではそれをリズムや不確定性や流れや滑らかさによって構築することができる 。──現実 。彫刻家はそれをアウラも実体変化もなしに世界へ放り出す 。──それに結局は詩も 。詩人は隠された世界を知っている者だが 、いかに意図的な詩といえども階層や典礼の奴隷なのだ。-フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』

散文というのは自由で、何ものにも縛られない。日々書きながら文体が変化していくことに気を取られる必要などなくて、好きに書けばいいんだろう。

整わない文章。支離滅裂な文章。不可解な文章。

文章だけじゃないけど、やっぱり「なんかちょっと変だな」っていうものがいいよね。